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今朝の新聞

kage

2012/08/30 (Thu)

今朝の新聞(8月29日の読売新聞朝刊)のコラムで、

井伊直政が関ヶ原の戦いの2年後に死んだ。その死因が、関ヶ原で鉄砲に打たれたことだった。

よくよく考えてみれば、大将は近習(傍に使えるもの)がおり、まず、鉄砲に当たるわけがいが、通説だった。

なぜ打たれたのか、筆者は、国立図書館で文献を調査した、いや、関ヶ原の戦いの頃になると、文献が山のようにあって、調査は困難だったが、根気強く探した。

薩摩藩の島津が負け模様になった西軍から、逃げる為に徳川方の中央突破をしたのは有名な話

島津の敗軍が、旗を掲げずに、井伊直政の前を通りがかかった。

直政「お前は誰だ?」

彼「敵だ」

直政は、敵だから、追いかけた。

ところがである、直政は、近習25名に掟として、直政を取り囲むよう命令していたはずだったが、
戦乱のグジャグじゃ、武功欲しさに、3名ほどしか周りにいなかった。

そして、直政の馬は、大将だったから、速い馬で、あっという間に、集団の中を突き抜け、一人ぼっちになったところを、待ち伏せされ、鉄砲で撃たれた訳である。

更に、当時は、鉄砲対策にも怠っていた訳ではなく、鎧は防弾チョッキのようになっていたが、鎧を跳ね返った弾が、腕に当たり、うろたえて、落馬したのだった。

通常、落馬したら、討ち取るのだが、薩摩は、一人でいるのが、大将だとは思わず、さらに、敗軍の将なので武功は不要だから、逃げるのが、大切だと、首を取らなかった。

遅れて追いついて来た近習をみて、大将だったこと認識しても後のまつりだった。

戦乱の中でも、お互いが、常識を誤ったことが、後々の疑問になっていた。

この読売新聞の記事を読んで、朝の忙しい時間、読み入ってしまった。

筆者を確認すると、「武士の家計簿」でおなじみの人であった。

なんかねぇ。。関ヶ原の時代では統率が取れていると思ったら、やっぱり、人間、欲に目がくらんでいたんでしょうね。今と変わりませんね。







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